昭和43年6月19日 夜の御理解



 今日は午前中に、たくさんお参ります、お参りがあります中に、寿司屋さんが目立って多いんです。んー、福岡の三福寿司さん、それからいずさださん、それから東京の二葉鮨、まあこれはもう毎日お届けがあることでございますけれどもね。今日はあの、寿司勝さんのお導きで、いっぺん参ってみたいと言いよった人たちが、らしいんです。寿司屋のおかみさんやら大将やらがお参り。すし勝に、寿司屋、それからすし虎、それから幸寿司、しあわせの寿司と書いて、という四件の寿司屋さんが一緒に参ってきました。初めてのことでございますから、いろいろ、このーんー、初めて参ってまいりますね、金光様のご信心が。その寿司かつさんから色々聞いてはきとったらしいですけれども。すしかつ、寿司屋、寿司とら、ね、幸寿司と、いうように、この、人たちの、こうお店の名前から、御理解を頂いたんです。
 
 これはあの信心も、もう何でも同じことですけれども、やはりあの、辛抱するということが一番です。それは、あー、唄の文句にもあるようにその、相手に勝つよりその自分に勝てということ。これは大変辛抱のいることなんです。信心でもそうです。ね、己に勝つ、自分自身に勝たなければならない。ね、己に勝つということ。そこんところをね、ただ歯をくいしばって辛抱するというので、信心は段々分からせて頂くと、辛抱させて頂いておるということが有り難くなってくるのです。それがあの、信心のまあいうなら特徴でしょう。ただ辛抱しました、ただもう歯をくいしばって辛抱しましたではなくて、金光様、金光様で辛抱させて頂くとね、必ず、そこにはもう辛抱したその後に、有り難いものが頂ける、とくには、有り難い、ね、辛抱するということが楽しいこうなってくるということ。 お互いが、いわゆる幸寿司を目指してね、いわゆる幸せ、寿司というのは、寿を司るとこう書いてございますから、ね、いわゆるその、寿、おかげを司るものはですね、やはり辛抱だ。そこに幸せが絶対約束される、同時に寿司やである、日々が安心のおかげが頂けれる、ということがね、信心の眼目です。お互いが安心のおかげを目指して、信心させてもらう。どうぞ商売繁盛いたしますように、どうぞ、と言うて私、今日寿司かつさんがきておりましたから、寿司かつさんのところのおかげ話をいろいろさせて頂いたんです。最後にこの、寿司とら。今日はやっぱりああたがたは私と縁を頂かなきゃいけんとですよ。私がね、大体寅年生まれです。ですらか以前神様が私のことをね、呼びなさるときには、虎寿司虎寿司と言うてお呼びになった時代がある。ですからやっぱああた方は、どうしてもこれはご縁を頂かなければならん方達ですよというてまあ、お話をしました中にもです。今日福岡から、今日は三福寿司がお休みでした。それであちらの職人さんたちが全部朝の御祈念に参ってまいりました。というてその、三福寿司の職人さんたちが、主人の高橋さんが信心になられるところから、もうほんとうに、何でしょう、今日はみんな家族の者も参ってきとります。今日はお休みだからというて、職人さんが特に三人の熱心な職人さんたちがお参りしてきます。
 その中の1人がね、今朝方先生、こういうようなお夢を頂いたというて、そのお届けがあったんですよというて、お話をいたしました。

 徳久さんという職人さんですけれども、今朝のお夢の中にですね、そのこう、川の小さい川の、まあ堤防のようなとこに立っておる。で下を見ると綺麗な水の中にね、そのこのくらいばかりの鯛のような、まあ海の魚と思われる魚が、こうきつそうにして泳いでおる。はあこれは、大体塩水の中におる魚が川の中に離されとるから、きついのだろう。これをすくうて帰って、そして自分方で塩水の中に生かしてやろうと思うて、そのおりていった。ところが下の方にですね、可愛らしいおたまじゃくしがいっぱい泳いでおる。あれは福岡辺りではね、あのおたまじゃくしがお金になるそうです。あの、金魚のように鉢に買うんですね。可愛らしいんでしようねまた。その横にはどじょうがいっぱいおる。はあ、どっちば取ろうかと思いよるところをお夢頂いたとこう言うのです。
 ですから、この徳久さんていう人は、お母さんも兄弟もみんなここに参ってくるんですけれども、もうそりゃあ実に親切な、もうそれこそ神様じゃなかじゃろかちいう位親切な方です。ね、けれどもね、どっちかというと親切がそんすぎるんですね。ご主人は、中学校の先生を長年されましてから亡くなられる時には、たくさんの退職金があったんです。それをその当時、お稲荷様に参よりなさった、ね。それでお稲荷様の当人さんの世話でですね、大変金に難義しておる人がおるから、徳久さん貸してやんなさらんかといいなさるもんじゃからね、はあいいですよ、どうせあの銀行に入れる金ですから、その、その金で助かられるなら貸してあげますよちいうてから貸したっきりとれんとです。それでもね、もうそれをひとっつも恨みなさらん、もう16、7年になりますでしょうか。そのままひっかかったきり。取りに行くとかえって逆恨みのようなことを言われるようなその、人なんです。
 この方はしかし不思議な人ですよね、この頃からは、そういう難義な中を通っておる時に、ある、あの方が金を貸そうというから、金を15万かなんかの時に貸したんです。そして10万返したんです。その受け取りがあるんです。ちゃんと受け取りがある、ところが向うの貸したおじいさんはね、絶対もろとらんちいうて言いきんなさるとげな。だからそれを払うといいよんなさる。受け取りまであるとですよ、ちゃんと。ね、それをその、かやすと。そういうようにですね、親切がすぎるほどにある人です。あの、ここにちょいちょい参ってきますから、みなさんも知っておられる方が多いと思うんですけれども、もうそれは本当にあの、私話聞きよると神様ちゃこげな人じゃなかじゃろかというようなことを言われるです。けれどもね、ただ親切であるというのだけではいけない。だから、徳久君、あんたんところはね、どうも人に親切にしすぎるその、いわばめぐりがある。椛目の内田さんと同じこと。よう似とる。もうそれこそ自分んじゃなかったっちゃこう人にやらにゃでけん、その施しをすることはよいけれども、過ぎたるはおにばざるがごとしという、ね。

 例えばその海の魚がここに泳ぎよるけん、それを、例えば塩水の中に連れて持って帰っていかしてやろう。塩水の中に生かしてから生きるはずがない。ね、けども、ただ目先にかわいそうと思うたらそうしなければおられないようなものを持ってるんですけれども、それではね、信心、信心させてもらうと場合にはね、場合にはその、本当に冷たい人だ、冷淡だと思われるようなことすらあるとですよ。ね、先日からも頂きますように、夕べでしたかね、頂きますますように、道徳と、道徳的じゃない、超道徳なんだから、信心というのは、ね。例えば親孝行でも、はあ、親のいうことを聞くばっかりが親孝行じゃないっというんですから、信心は違うんですよと。ね、だからそれはあんたはね、はあ、可哀想にとこう思うた時には、はあたこれは親切しすぎのめぐりがでてきよると思うて、やっぱりそこに躊躇するくらいな気持ちがいるね。
 同時にその、おたまじゃくしと、その、んーどじょうのことなんです。どちらを取ろうかと迷いよる。どうでも徳久君、どじょうの方をとらにゃいけんよと。どじょうっていう魚はね、非常に辛抱の徳とおっしゃる。お知らせの中に。川のものだから、川のものは徳とおっしゃる。しかもあれは辛抱の徳。ね、例えば水がなかったっちゃ泥の中にいかっとりゃですね、もう一時はしなん位に辛抱強いとです。他の魚は水がきえたらもう、すぐ死んでしまう。ね、もうこれは水がひやがっとったっちゃですね、その、泥の中にもぐっときゃあ死なんという位に、息の長い、辛抱の強い魚なんです、ね。おたまじゃくしが可愛らしいからというてね、おたまじゃくしどん取っちゃならんよ。なるほど可愛いごたるけれどもね、必ず、ね、目が出て、手が出て、脚がでるとどげんなる。もう先生が一番恐いもの、すかんものになってしまうですよ。だからね、あんたがここで御理解頂きよるけん、ちゃんと先生がその御理解まで頂いとるわけです。
 これは特にね、男女関係をね、大事にしなければいけないよと私は申しました。ね、初めの間は目が出た、まあちょっと色味どん、(?)間はまあよかて、けれども手がでるごとなると、まあちったかわいらしかばってんね、もう足どんがでるごとなったらいよいよ恐いことになるです。特に徳久君、ここんところはしっかりあの、信心させて頂いとるものは、ね、辛抱しなきゃけいないよ、というてお話をしたというて、私がお話をしたんですよ。そしたら金光様ちゃもう本当に有り難か話ちゃ聞いちゃおりましたばってんか、本当に有り難かお話ですねていうてから今日は、大変感心して帰られました。同時にその、いわゆるすしやすさん、すし勝さん、こうずしさん、すし虎さん、まよう半自問のことそろうちからきたきたごと、きたですねち自分たちでたまがっておられます。ここに縁のある人たちばかり。信心に縁のある人たちばかり。ということは、ああた方もどうでも信心させて頂くことによって、その現在はそりゃもうみんな、そりゃもう繁盛しとる店ばっかりなのです、久留米で。金の不自由する人なんて全然ない。はい、けれども信心させていただきゃあいよいよ幸せになれるという人たちばかりですから、して今度はこじごしと、1人1人一ついっぺん参っておいで、今度は一人一人に私、個人教導しようというてから、お話したことでした。やはり個人教導受けなきゃだめです、信心は。ね、それが段々こうやっておかげを頂きよりますとです、私が100人の前でお話いたしましても、その一人一人が、はああれはあの人にあてつけて言いござる御理解という風に思わずに、これは家のよめごに聞かせたいという風に頂かずに、ね、あれを自分自身の御理解として頂くようになる。すと、100人おるなら100人が個人教導ができるわけになる。御理解というものはそんなものだ。といてお話をしたことでございますけれどもね。

 その、例えば寿司屋さんのその、中からでも、もう信心には絶対今朝の、昼の一時の御祈念があっております。ね、しかし私今日はさっきからお風呂に入らせて頂いてから、もうとにかく御祈念も重労働ちいうてから若先生が入ってきましたもん。ここで手ばこうしてから。手に、もう今日で四日ですか。もうあの、これをにぎって扇子がわりににぎって御祈念するわけですね。もうあまりにもその力を入れるもんじゃけん、手に豆がいっぱいでけとるです。たった四日間で。そげん一生懸命。ね、一生懸命ということは確かに重労働に値する。というようなです、例えば、ならもう御祈念力によって助かろうと。ね、御祈念力を身につけようというような、この夏の修行がまあ始められておるわけでございますがね。ね、その、お昼の時にも今日頂きました、ご神誡の中に、んー、んー、えー何でしたかね、四行の、んー、んー、真の道におりながら、真の道を踏まぬことということを頂きましたですね。真の道におりながら真の道を、はあ真の道を踏むちいうことは、そりぁとても信心も難しか、そげなことはできんというようなことじゃなくて、難しいことじゃないて。ね、真の道を踏まぬことというのは、これは四神様のみ教えの中に、二代金光様のみ教えの中にね、えー、例えばね、信心しよるからと、10のよいことをしたところでね、一つの悪いことをしたらもうおしまいだとこう。だからその一つの悪いことをせんということが、真の道を踏むことだということです。してみると、難しいこっちゃない。10のこつば守らなんちいうなら大変難しい。ね、けれどもこれはみちゃならんこと、と自分に気がついたら、それを改めるということ。たった一つ改めることがそげなごつ難しいこつはなか、というような御理解だったんですけれども、それとてもです、私が今日申しますように、人に勝つより己に勝たなければ、できるこっちゃあないです。ね、自分自身に勝たなければならない。そういう辛抱力を作るために、暑の中、暑い中に、それこそ汗ぶるぶる流しながら、一生懸命御祈念をするけいこというのは、そういうけいこなんです、ね。さっきのその徳久さんが頂いとる、じゃないけれども、それこそ目が出て、手が出て、脚が出るというように、そりあ人間ですから、もうこうやってひっぱろうこつがあるけれども、ついつい手が出てしまうというのが人間の弱さなんです。そこで、自分に勝つけいこを信心によってしっかりさせてもらうということが、幸せにつながるか、いわゆる幸寿司につながるかということが分かるでしょう。
 ね。そこから、いわゆるすし安すさんです、ね、いわゆる安心、ね。本当に素晴らしい寿、寿を頂いて、素晴らしいおかげを頂いて、日々安心のおかげを頂けれる、それにはね、寿司虎さん、それにはどうでもすし虎さんがいうような、ね、信心にならなければいけない、虎すしのいうことはよく聞けよということになるのです。ね、そこに、安心が約束され、ね、または幸せが約束され、ね、己にどんなに自分が弱い人であっても、神様のおかげで辛抱させてもらうと。辛抱ができないようなことでも、金光様ーとおすがりすると辛抱ができる。ね、そういうところに有り難いことになってくるんだと、まあいうようなことを、今日の寿司やさんたちに聞かせて頂いて、しかし珍しいことですね。今日は七件のすし屋さんのお届けさせて頂いた。ね、これは合楽全体としても、何とはなしに有り難い、おかげのこうぜん、前兆といったようなものを感じます。それはその、たくさん繁盛しござる店が参ってくるかちいうんじゃなくて、この、ね、例えばすし屋さんたちがみんなで参ってみえるという、ということだけでも何とはなしに有り難いなあということを感じました。
 先生あの、ばさらか今日はお供えがあげんしちゃるごたる風ですが、ありゃあ何のためにあげなん風にお、おかざりしちゃるとですかちいうちから、昨日がね、お月次祭でしたから、まあだ下の方に大盛りがいっぱいでましたよ。大盛り台。はあ、あげんいつまっでんお供えするとですか、あれはもう超特急のお酒んごたる、私の方も超特急、すし屋さんたちはみんな特急発注多いげなもんね、超特急まではおらんじゃろう、だからここん神様の方が上ん段ですたいちいうちから、いいなさいました。ここでは超特急より超特急のまいっちょ上んとが、あのお供えしてございますもんね。ね、これはもうやっぱあれを見ただけでもやっぱびっくりして今日は帰られました。ね、でもご縁というものはどういうふうにでてくるか分からんから、そのご縁を大事にしていかれる人こそおかげを頂く人である。縁はあっても、縁を異なものにしていく人があります。神様も、悲しい事でしょうけれどもね、ご自分も幸せをいれずにそ、すんでいかなければならんから、本当に馬鹿らしい。縁を縁として生かしていくところにね、信心がある。縁を異なものにじゃない、いよいよ縁を味なものに、味わえるものにしていくおかげを頂きたいですね、どうぞ。




池尻てるか